突然だが俺は20代中盤ぐらいから「薄っぺらい人間にだけはなりたくないな…」なんて漠然と思うようになったことで、自分の中で人としての深みを意識するようになった。
そんな俺は過去に理学療法士として色んな患者さんと出会ってきたのだが、その中でも知れば知るほど魅力が増してくる患者さんが一定数在した。
しかもそういう患者さんの話って、めちゃくちゃ興味深いし、何より俺自身が会話にめちゃくちゃ満足してる。
これが人としての深みなのかなと漠然と思っていた。
人として深みを感覚的に言うと噛めば噛むほど味が出てくるスルメみたいな感じである。
噛めば噛むほど味が無くなるガムみたいな人とは対局に位置している。
というわけで今回はスルメみたいに噛めば噛むほど味が出てくるような人としての深みの正体について綴りたい。
深みセンサーが反応する瞬間
俺が思う人としての深みは年齢を重ねれば自然と出てくる年輪みたいなものではなくて、経験から滲み出る目には見えない味みたいものである。
俺ぐらいになると頭から深みセンサーが生えてきて、会話1つでその人に深みがあるかどうかが分かるようになってきている(化け物)
深みセンサーが生えてくる前は言語化できないモヤモヤを抱えていたのだが、センサーが生えてからはそれが深みであることが発覚した。
そんなわけでここからは俺が深みを感じる瞬間を紹介する。
放つ言葉がとてつもなく重たい
これは油断してると自分も気づかず陥ってしまうので、常に自分にも言い聞かせてるぐらい意識しているのだが、深みのある人のほとんどが自分の言葉で喋っている。
多くの人が一般論や格言を取り入れて表面だけをそのまま使ってしまいがちだが、深みのある人は自分の持論に落とし込んだり、経験と照らし合わせることで言葉に重量感を与えている。
誰かしらが言っていたことや書いたことを一旦、噛み砕くことで肉を削ぎ落とし骨格だけにする。
そしてその骨格に自分の持論や経験を肉付けする。
つまり本質を見出せることがミソであり、そこに自分だけのボリュームを付け加えるだけで言葉のズッシリ感が増す。
それだけでも言葉の重みは段違い
自分に合った言葉のフォーム
野球のピッチャーで例えるとボールの握り方だけは一丁前なのに足腰はめっちゃ弱いみたいな感じである。
ボールの握り方を分かったところで下半身はしっかりしてなければ何の意味もない。
まずはボールの握り方に疑問を抱いて、そこから自分の身体機能や投球フォームに合った握り方を習得すべきだと思う。
要はマネからオリジナリティを生み出すイメージ。
負の感情と真剣に向き合った経験
これがあるかないかで相手の心に刺さるかどうかが決まると言っても過言ではない。
なぜなら苦悩をはじめとする絶望や落胆などの強い負の感情を抱えたときには嫌でも自分と向き合うからである。
もし自分が病気になったときは自分の生活習慣や過去の行動歴など思い当たる節を振り返って色々と原因を探ると思うが、健康なときはそんなことをする人はいないはず。
いたらおそらくその人の後頭部にも目があるから確認してみて欲しい(真顔)
実体験から出た言葉の重さは凄まじい
つまり楽しいことより辛いことのほうが物事を深く考えるので、思考が洗練されていく。
嫌な気持ちになりたくないという人としての防衛本能なのかもしれないが、これは万人に当て嵌まると思う。
極論、生死を彷徨ったほどの大病を患った人の「健康は大事」ほど心に突き刺さる言葉はないと思う。
苦悩した経験を昇華できる人に深みが宿る。これに尽きる。
突き詰めて知りたい何かがある
個人的に人としての深みは趣味に最も出ると言っても過言ではないと思っているのだが、探究心を持って趣味に向き合えているか否かで人としての奥行きがより深まるのではないかと本気で思っている。
ちなみに俺は探究的な趣味を見つけてから人としての深みレベルが上がっていると実感している(主観)
そもそも探究的な趣味とは何か新しいことを知る楽しさが醍醐味であり、その一方で探究的な趣味とは対極に位置するのが娯楽的な趣味である。
自分が興味のある分野にとことん詳しかったり、時間を忘れて好きなことに夢中になれたりと、飽くなき探究心が人としての深みが増すのではないかと思っている。
そういう意味では探究的な趣味はインプットの極みであると言える。
何かしらを生み出せるか否か
探究的な趣味の他にも生産的な趣味も持っておくと尚良い。
俺が定義するに生産的な趣味とは自分の手で何かを作り出す趣味のことである。
ちなみに生産的な趣味の反対は消費的な趣味になる。
生産的な趣味と消費的な趣味の決定的な違いは何かを消費するか生産するかにあり、俺自身どちらかというと自分で何かしらの創作物を生み出す生産的な趣味のほうが楽しさを感じているし、何かを作り出す楽しみは持っておいて損はないと思っている。
個人的に工作や絵を描くとかは生産的な趣味の原点であり頂点だと思うし、自分の頭で創意工夫を施す工程を踏むことで人としての深みが出るのではないかと考察している。
生産的な趣味は何かを生み出す楽しみが大部分なので究極のアウトプットとも言える。
要するにバランスが大事
というわけで今回は俺の独断と偏見で人としての深みについて書き下ろしてみたが、これにはある理由がある。
それは俺が人としての深みを追求する理由は俺自身がつまらない人間になりたくないという反動形成によるものである。
そんな俺は物心がついた頃からずーっとおもしろい人間になりたいという欲求が根底にあったのだが、どうやら俺が思い描いているおもしろい人間の条件には人としての深さが必要不可欠な気がしている。
そしてここまで偉そうに語っておきながら俺自身、まだまだ深みのある人間になれてない未熟者。
噛めば噛むほど味の出るスルメみたいな人間になれるように、まずは陽に晒されてきます(干物)