「カリスマ性がある」なんて使われ方しかしてないカリスマという言葉だが、個人的にカリスマという言葉にはなんとなく神々しい感じがしてならない。
というかそもそもカリスマって何ぞや?←まずはここから。
おそらくカリスマという言葉の意味を知らずに使っている人がほとんどだと思うし、なんなら俺もなんとなくのイメージで使っていた内の一人である。
カリスマという響きの良さだけが先行していて、痒いところに手が届かない(言語化できない)
というわけで今回はカリスマの正体を暴いて、俺が思うカリスマを定義付けていきたい。
一緒に仕事したいより飲みに行きたいが勝つ
カリスマ性のある人って個人的に知識や技術といった表面的な部分ではなく、独自の価値観や哲学に惹かれる部分がある人なんじゃないかと睨んでいる。
その人の人間性に興味が湧くか湧かないかがカリスマ性の素質を決める初歩的な要因であり、カリスマ性は仕事ができるできないなんていう簡単なものではない気がする。
極論、俺が思うカリスマ性とは一緒に仕事をしたいというより飲みに行きたい方が勝つような後天的に身に付けたスキルではなく、先天的に備わっているセンスが光るオーラみたいものを発している人がカリスマ性がある人だと思う(超抽象的)
じゃあ具体的にカリスマ性のある人にはどんなオーラを纏っているのか。これを紐解いていく。
損得勘定では動かないオーラ
損得勘定で動くのは人生において重要ではあるが、ほとんどの判断基準が損得勘定な人はカリスマ性が低めだと感じている。
そして相手に損得勘定がバレてしまった日には自分のカリスマ性は壊滅的であり、そもそも損得勘定に全振りな人って心の余裕がない(断言)
その余裕のなさがカリスマ性を著しく下げている。
ビジネスライクと割り切るのもそれはそれで良いが、基本的に人間関係を損得勘定だけで判断するのは人としてナンセンスな気がしている。
人間関係は得より徳を取る
個人的に損得勘定で人と関わっても浅い関係性しか築けないし、それだと何より自分がつまらない。
目的を達成するためには人を手段として割り切って使うことも時には必要だが、たとえ内心そう思っていたとしても、カリスマ性のある人はそれを出さない。というか出ない。
相手の狡猾さが垣間、見えた瞬間に冷めることを知っているからである。
やはり人間の最終的な判断は感情なので、感情がある限り損得勘定で人を動かすには限界があると思う。
人間関係に限っては得より徳。
カリスマ性のある人は損得勘定で瞬間的な利益を得たとしても、長い目で見たときにそれがマイナスだと分かる嗅覚を持っている。
勝手なイメージだが損得勘定が過ぎる人って、転売ヤーみたいな目の前の収益しか見えてない印象(偏見)
人生について聞きたくなるオーラ
仕事の相談はしたいが、人生の相談はしたいと思わない。
カリスマ性のある人は仕事より人生の相談をしたいと思う傾向にある気がしている。
個人的には仕事に全振りな仕事人間は嫌いではないが、人としての余白がないように感じてしまうのが勿体ない。
視野が狭いというか頭が硬い感じである。
そしてどこか上司や先輩に媚びている部分があって、会社に飼われてる感じがプンプンしている。
自分自身の一貫した確固たる信念よりも会社の方針に有無を言わさず従ってしまうような組織人はカリスマ性は低い。
人としての余白が多い
カリスマ性には一種の人間臭さみたいなものが必要だと思うし、カリスマ性のある人って趣味とかの余暇活動が充実してるイメージである。
仕事が楽しいのは除いて、仕事以外の楽しみがあるほうが思考の引き出しが多いような気がしていて、人生を達観してるんじゃないかと睨んでいる。
良い意味で何を考えてるか分かんなくて、適当なときはとことん適当なのに、やるときはきっちりやるという感じである。
カリスマ性とは無視したいのに人としての余白の部分が多いがゆえに、視界に入ってきてしまう人のことを指している気がする。
褒められたら嬉しいオーラ
そもそもカリスマ性のある人は口数が少ないというか、自分の土俵でしか戦わない節があると思っているのだが、基本的にカリスマ性のある人って、自分がどういう人間なのかを熟知しているので、何事も自分のフィルターを通してから意見することを徹底している。
それに加えて経験則から物事を伝えることが多いので、妙に説得力があり言葉が相手に刺さりやすい。
要はカリスマ性のある人は自分のことをよく分かっているがゆえに、自分の言葉にプライドを持っているので不用意な発言はしないし、伝えることに対する責任感が段違い。
そして誰よりも伝えた後の反応や感触やを気にしがちなので、言葉が洗練されている。
だからこそ褒められたら嬉しいし、怒られたら凹む。
自己理解によって自分と向き合ってきたことで自分の理解している範囲が増えると他者理解に繋がる。
何でもかんでも言わない美しさ
個人的に自分が経験したことや感じたことが多い人ほど他人に優しくできると思っているので、経験値が少ない人ほど吠えたがるし、穏やかじゃない高齢者なんてこの世にいない(多分)
誰かの格言で「何を言うかは知性で、何を言わないかは品性である」という言葉があるとおり、なんでもかんでも噛みついてはカリスマ性が駄々下がる一方である。
サシ飲みへの意欲こそがカリスマの判断基準
というわけで今回はカリスマの正体を暴いてみたが、やはりカリスマ性を決定付ける大きな違いはサシで飲みに行けるか否かという結論に至った。
この持論は俺自身が経験した事であり、俺が理学療法士としてバリバリ働いていたときに飲みに誘われて嬉しい人と嬉しくない人が存在したことがキッカケである。
極論、その人のことをもっと知りたいという探究心が掻き立てるような人じゃないとサシ飲みは厳しいということが分かった。
そしてサシ飲みこそカリスマを決める踏み絵である(浅はか)