「誰がこの記事を読んでくれるのかな?(楽しみ)」なんて思いながら半ば心を躍らせて自己紹介文を書き進めていたのだが、書けば書くほどに「誰がこんな記事を読むんだ?(虚しさ)」という客観的な感情を抱いていることに気がついた。
ただの自己満に浸る分には申し分ないが、どこの馬の骨か分からない奴の自己紹介に興味を持つのは至難の業である。
でもまあ一応、執筆者に興味を持ってくれたときのパターンに備えて、挨拶がてら自分の人となりを書いておくことにした。
生々しい自己紹介をとくとご覧ください。
強ち間違っていなかった過去の選択
理学療法士という道。
1993年の平成5年生まれで、この記事を書いている時点での年齢は30歳である。
出身は愛知県であり、現在は東京で理学療法士として働いて飯を食っている。
理学療法士という国家資格のおかげで一生、食いっ逸れることはないのに約束されているに等しい(多分)
というわけで30歳にしてお笑いという新たな夢に挑戦するために上京するのも容易かった。
医療系は食いっ逸れない。
20代という貴重な時期を理学療法士として捧げたので良くも悪くも医療の世界しか知らないし、医療従事者という特殊な職業柄、働き口が医療現場に限られてしまうのは難点だが、資格さえあれば何処へ行っても通用するという潰しが効くのは魅力的だと思う。
何の目的もなしにとりあえず大学に行くぐらいなら、専門学校で手に職をつけるほうがよっぽど良いのではないかと感じている。今思うとかなり現実的。両親と18歳の頃の自分に感謝。
そしてここからは俺という人間の価値観の変遷についてを語っていく。
良くも悪くも剽軽な八方美人
個性ゼロの量産型キャラ。
幼少期の頃から息をするように相手を顔色を窺い、人から嫌われること極力恐れながら過ごしてきた人間である。
そのため常に場の空気を読んでいたせいか、人に合わせることには長けていると自負している。
自分の意見を主張するより周囲の空気を優先してしまう習性で、独りでは何も出来ない。群れていることに安心している金魚のフン状態だった。
単に尻尾を振っているだけではない。
おまけに自分のキャラを認められたいという欲求が人一倍強く「個性的だね!」と言われると心地良い気分になるのに対し「真面目だね!」と言われると何故か複雑な気持ちになってしまう面倒クサい性分なので自分を取り巻く人を笑かす事に注力していて、なんとか周りから”オモシロい奴”というレッテルを貼られたいが為に行動していた少年だった。
思い返せば自分の個性を認めて欲しい一方で、自分が狙っていない個性に触れられたりすると「そうじゃないんだよなぁ~」というワガママな思考になっていて、今でもそれは変わっていない。
自らの意見を持たず、周囲に同調しながら”オモシロい奴”という欲求には忠実で、表面的でかつ広く浅い関係を築くことで満足し、友達が多いことや人脈の広さが自分の中で何よりのスペックだった。
普通が何よりも格好悪いという姿勢
人工的に変人を演じる。
今思うと、あえて人と違うことやることに酔っていたというか人とは違う選択や行動をすることで何とも言えない優越感に浸ってしまっていた。
常時、相手から「変わってるね」と言われ待ちな状態でスタンバイしていて、何事も自分が意見するより相手の反応を重視してしまう軸ブレブレ中身ペラペラ人間だった。
人の顔色を窺ってきた末路。
周囲の反応を堪能したいがために持ち前の空気を読み力と人に合わせる力で手っ取り早く、その場に適した付け焼き刃的なキャラを演出していくようになり、その結果”オモシロい奴”や”デキる奴”とか”スゴい奴”といったキャラという名の武器が欲しくなり、次第にキャラ武装していくことに満足してしまっていた。
なかなか開けなかった心の扉
付け焼き刃のキャラでは満足できない。
とはいえキャラ武装したところで、その武器(キャラ)が扱えなければ何の意味もない。
そんな単純な事に気づけなかった承認欲求丸出しの俺は今までの上っ面な立ち振る舞いで作った友達では満足できなくなり、素の自分でいられる心の友を探し始める。
そこで今度は武器(キャラ)の質に拘り始める。
己を曝け出すというハードルの高さたるや。
”オモシロい奴”という表面的でフワフワしたのではなく”発想が独特でオモシロい奴”というような、より具体的な反応をしてくれるかつ深いレベルでの繋がれる友達を見つけるべく数を当たって色んな人と話してみるも、自分の心を開くことが意外にも難しく自身のプライドの高さを悔やんだのを今でも覚えているし、未だに友達に自分の全てを晒け出すことはできていない。
自分を認めてくれる根っからの心の友を作りたいという一心で学校も職場も人で選んできたのだが、なかなか等身大の自分でいられる友達を見つけるのは至難の技であると気づいた。
ケツの穴が小さいことを自覚する。
そのくせ学業や仕事においては自分に余裕がなくなり、不安に陥ると損得勘定が働いて「頭の良い人や仕事が出来る人と仲良くなった方がいいんじゃね?」という思考になり、生存戦略的に心の友を作るより学の友やビジネスな友を作るほうに重きを置いてしまい、満たされない日々を送っていた。
もし俺が生きるか死ぬかのゲームに参加した場合、簡単に人を裏切る可能性大である。要するに俺の心のキャパシティは狭い。
ずーっと眠っていた価値観
周りにどう思われるかを辞める。
そして結局のところ俺は誰かに認められたくて必死に尻尾を振りまくっていた犬同然であり、そんな姿を客観的に見てしまい、その姿が如何に滑稽だったかを知ることになり自己嫌悪に陥る。
承認欲求の数や質を求めた結果、自分は外部に目を向けてばっかで自分の内面に目を向けていなかったことに気づく。
自分自身を知ろうとしなかった。
まずは自分に合う武器(キャラ)を探すために自分自身を把握しなければならない。
自分がどういう人間か分からずして自分に相応しい武器(キャラ)なんて見つかるわけがないし、ましてや心の友なんていう深い繋がりを持った関係など作れるはずもない。
自分らしさという言葉がこんなにも程遠いとは思わなかった。
今まで自分を見つめるという行為をしてこなかった灯台下暗しな俺は今更ながら自分と向き合うことで、自分の本能の赴くままに生きる決断をする。
湧き上がる根っからの欲望
俺は一体、何がしたいのか?
そもそも俺という人間の本能とは一体何なんだろうか?ここまで来ると効率とか無駄という概念が一切なくなる。
極端だが一度、どちらに振り切った考えになるのも悪くはないし、むしろ振り切ったほうがしっくりくる。
というわけでシンプルに自分の脳が満足することを挙げてみた。
・深い話をすること
・人を笑わせること
・発想を広げること
・共感する・されること
・目標を達成すること
・個性を尊重されること
これらが俺の今、思いつく限りの至高の全てである。
この6つが自分の脳を満足させてくれる脳汁案件だと信じてる。
脳汁が出さえすればそれでいい。
そしておそらく自分はこのまま独身で結婚する気もないので、脳汁が出る自分のとってとびっきりの好きなことで人生を彩りたいという結論に至った。
現実を生き抜くより理想を追い求めたい。
無理難題でも好きなことであれば果敢に取り組んで日常では味わえない魂が震えるような体験をしたい。
そんな刹那的な感動に人生の重きを置き始めた俺にとって地位やお金などの世間一般的な成功にはあまり興味がないことが分かった。
分かりやすい評価や物は俺にとって、ただの瞬間最大風速でしかない。
苦しみの種は理想と現実の乖離
配られたカードで戦うことの限界を知る。
どうやら俺は眼に見える評判より眼に見えない信念を軸にまず人としてどうありたいかを人生の最終目標にしているようなので自分が思う理想の人間になれるように日々、精進しているわけだが、ときおり理想と現実のギャップに苦しみながらも一歩一歩、前に進むことに生き甲斐を感じている。
とはいえこの記事を書いている俺は既に30歳を迎えているので配られたカードで勝負をするしかないことは熟知しているし、そっちのが自分の力を最大限に発揮できるに決まってるのは重々承知している。
だが配られたカードだけではいずれ手詰まりになり自分の理想とするコンボが決まらず、逃げの一手に走ることもあると思うが、それはそれでいいと思ってる。
なぜなら配られたカードの範囲内で出来ることを模索するほうが合理的で成功する確率も高いし、何よりストレスがかからないからである。
配られたカードでは勝てないと悟ったとて、戦うフィールドに未練が無ければを環境を変えれば何の問題もない。
新しいカードを手に入れることで広がるコンボ。
自分が戦いやすい環境に身を置くという戦略的撤退も無きにしも非ずであるのだが、今の俺は配れたカードで戦いつつ、自分には無いカードを手に入れようとしている。
これがとてつもなくしんどい。でも俺は知ってる。
手に入った瞬間、配られたカードとの組み合わせで使い道が一気に広がる感動は何物にも変え難いことを。
新たなカード手に入るまではストレスもかかるが、程良いストレスをかけないと人生がつまらない。
得意なことだけに全振りするのも悪くはないがそれでは生活に張りが出ないし、今は向き不向きよりも楽しさがかっている。
結局のところ人は自分の脳という名の本能には逆らえないし、好きという感情にも嘘はつけない。
要するにやりたいことやるためにやりたくないこともやる必要があるということ。
人生一度っきりだし、ちょっとぐらい夢を見ても良いんじゃない?というのが本音。
悔いのない自己満に浸る人生
承認欲求が強めであることは変わらない。
所詮、人生なんて悦に入ることでしか幸せを感じることができないので極論、最低限の衣食住と若干の承認欲求さえあればいいと思ってるのが、俺の場合その承認欲求が若干ではなかった。
理学療法士で散々、承認欲求を満たしてきたのに8年という歳月により風化してしまったようだ。
主たる原因は慣れと飽きだと思っていたのと同時に俺の承認欲求が底無しであることを実感している。
そもそも俺が理学療法士という職業を選んだのも、人から感謝されたいとか人に貢献したいといったハートフルな部分が大半を占めている。
なので元々、人の心を動かしたいという欲求からはずーっと根底にあったのかもしれない。
そんな俺にとって、お笑いは人生史上最大の情熱を注げる脳汁案件となった。
そして今まさに、そのお笑いという新しい刺激に触れようとしているわけである。
お笑いという自分が決めた道を進むからには、新しいカードを手に入れる努力も惜しまないし、配られたカードもバンバンにきっていく。
好きなことに対する情熱は損得感情をも凌駕するし、何よりお笑いに没頭できることが俺の人生の張りになる。
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【立ちはだかる障壁】
「愚直で不器用な努力こそが大衆を惹きつける」俺はお笑いという険しき道を進むことを自分で決意しておきながら、芸人にとしてかなり致命的なハンディキャップを抱えたまま道なき道を進んでいる。 というのも俺は吃音症という厄介、極まりない障害を持っている。 ...
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気に入ってくれたら御の字
というわけで、このブログでは俺がお笑いに奮闘する姿を公開するので是非、見ていただければ幸甚。
そして写真も少ない自己紹介をここまで読んでくれたことに深謝。
この他愛のない自己紹介を何かしらの役に立てれば何より。