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【立ちはだかる障壁】
「愚直で不器用な努力こそが大衆を惹きつける」

俺はお笑いという険しき道を進むことを自分で決意しておきながら、芸人にとしてかなり致命的なハンディキャップを抱えたまま道なき道を進んでいる。

というのも俺は吃音症という厄介、極まりない障害を持っている。

俺はこの障害のせいで未だに流暢に喋れず、吃りと戦いながら日々会話していてる。

これは正直、記事にするべきかかなり迷った。

というのもこうして吃音があると告白したとて、別に同情して欲しいわけでもないし、理解して欲しいわけでもない。

ただただ自分の弱みを晒け出すことで応援され力が少しでも上がれば御の字という邪な気持ちが大半を占めている(打算的)

とはいえまだ何も成し遂げていない俺が自分のコンプレックスを晒したとてではあるが、この記事が俺の同じような障害または境遇の人に届いて、何かしらの参考にしていただければ幸い。

吃音は分かりにくさ全開の障害

俺は現在進行形で吃音と戦っている立派な吃音者なのだが、言葉が出ないだけでここまで絶望の淵に立たされるなんて思いもしなかったし、今でも言葉が出なかったときの状況を思い出すだけでゾッとする。

そもそも吃音はなかなか理解されにくい障害であり、症状の大変さと当の本人の苦労が全く一致しない。

というのも第三者から吃音を見たときに自分が思っているより軽く見られがちであり、吃音という障害に対する認識の違いが客観と主観でかなり差があるように思える。

自分が吃り散らかしたときに周りから「落ち着けよ」とよくアドバイスをされるのだが、落ち着いたとて吃らずに喋ることは不可能で、より一層プレッシャーがかかる一方である。

噛むなんて言葉では片付けられない

そしていつの間にか吃りを隠すかのように自分の言いやすい言葉に変換したり、身振り手振りなどで言葉を伝えるのが常套手段になってしまっていた。

そんな騙し騙しの小手先のテクニックを駆使して懸命にコミュニケーションをとるようになってきたせいで、滑舌が悪いとか緊張強いとか言われながらもなんとか誤魔化し続けていた。

今思うと周りからは良く噛む人みたいな印象を持たれていると思うし、良くも悪くも今まで関わってきた人からは自分が吃音持ちである事に気付かれていないと思っている。

とことん不器用で未熟な喋り方

幸いにもそこまで重症ではないので吃音を懸命に誤魔化し続けた結果、その中途半端で未熟な喋り方がプラスの個性として働いて、ある意味人間味があるように見られていたというか、一生懸命で不器用な奴みたいな感じで見られていたのではないかと勝手に思っている。

その影響からか吃音と向き合う事は一切せず、何とか騙し騙しで吃りそうになりながらもやり過ごしてきた。

しかし時は経ち社会人となり、ちゃんと人と接する時はその個性はマイナスとして働いてしまう。

上手く喋れなかった原因に気づく

そもそも俺が吃音症だと自覚したのは社会人1年目の頃だった。

今までは学生という社会から隔離されているピータパン状態で現実を直視しなかったので、いざ理学療法士として患者様と接する時に上手く喋れず、患者様に不審感を与えてしまったのを今でも覚えている。

本来であれば患者様に安心感を与えないといけないのに、吃音を誤魔化すのに必死で変な受け答えをしてしまい患者様に不審感を与えてしまったり、なかなか患者様と良好な信頼関係を構築することが出来なかったのが記憶に新しい。

意外にも重かった吃音という足枷

「俺って、こんなにも喋れないんだ…」と幾度となく自分のスペックに落胆していた。

それだけでなく社会人になると朝礼や会議など、今まで極力避けてきた人前で喋るという行為が強制的に施行されるのだが、緊張下では吃音が暴れ狂ったように症状が増悪してしまう。

そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかったし、為す術がなく絶望していた。

「なぜ俺は自分が思っているように喋れないのか?」吃音のせいで自分の納得の行く仕事が出来なくて、悔しい思いを超えて呆れていた。

あがり症が可愛く見える

吃音は吃音がない人からすると極度のあがり症のようなイメージを持たれると思うが、吃音のある人からすれば極度のあがり症が可愛く見えてしまうぐらい、そもそも根本的な原因が違う。

なぜなら自分を初め、吃音持ちの人々はそもそも言葉や文章の話し方が分からないからである。

あがり症は少なからず流暢に喋る手法を理解しているので何とか自分の喋り方をある程度はコントロール出来るのだが、吃音症は流暢に喋る手段を理解していないので自分の喋り方をコントロール出来ない。

吃音に対する一筋の光り

そんな吃音症である自分が喋りを生業とするお笑い芸人になりたいなんて身の程を知った方がいいのは百も承知なのだが、俺はある人の出会いによって自身の吃音の症状が改善し、俺のお笑いへの可能性が広がってきたのである。

それが吃音専門の言語聴覚士との出会いである。

社会人1年目のときに俺自身が吃音と気づくまでは、この喋り方をどうっやたら改善できるのかを片っ端から考えて試しては失敗してを繰り返して悶々とする日常を送っていた。

今でも自分の思うように喋れず、喋った後は頭の中で反省会を開くのが習慣になっているのだが、当時の比ではない。

試行錯誤をしていくうちに自分が吃音症であることに気づき、そこから吃音について調べるようになり、ネットでたまたま吃音を専門にしている言語聴覚士を目にして、俺は藁をもすがる勢いで会いに行き、気持ちが少し楽になったのを今までも覚えているし、何より吃音が治るかもしれないという僅かながらの希望が舞い込んできたのは俺の人生のターニングポイントである。

吃音治療の第一歩を踏み出す

しかも驚くべきことにその言語聴覚士の先生は自身も吃音持ちであるのにも関わらず、スラスラと流暢に喋っていて、自分もこんな風になりたいと思ったし、何より説得力が半端なかった。

吃音を克服することで自分の思うがままに喋ることが可能になれば、自分の人生は好転していくのではないかと思った。

そこから俺は吃音を克服すべく、言語聴覚士の先生と二人三脚で言われた課題や助言をほぼ毎日、実践している。

一見、怪しいボイストレーニングのような課題なのだが、騙されたと思って継続してやってみると、少しずつではあるが以前まで言えなかった言葉が喋れるようになっていることに気がついた。

それから俺の人生の選択肢が増え、お笑いにも可能性を見出せるようになっていき、今に至るというわけである。

小さな成功体験が自信に繋がったのを身を持って体感した出来事である。

吃音は治療するものではなく克服するもの

そんなわけで昔よりも吃音の症状は格段に良くはなっているが、そもそも吃音症の治療は未だ確立されていない。

すなわち俺が今やっている課題にエビデンスはまだない。

言語聴覚士の先生曰く、吃りを治すというより吃りを出なくするほうが近いと言っていたので、今は良くも悪くも吃らない喋り方を習得することに全振りしている。

でも以前よりは確実に吃音は改善してきているし、良くなっている実感しかないのだが、まだ吃音の核心は掴めてはいない感じは否めない。

吃音については未だ事細かに解明されていない

これは言語聴覚士の先生も言っていたが、吃音の核心に擦ってはいるけど未だ吃音の正体ははっきりしていないらしい。

吃音の核心に擦ることすらできなかった俺からすると擦らせるなんていうのは至難の技の領域である。

そして今では過去にやってきた色んな課題を加味して、自分の主観も織り交ぜながら自分なりのメソッドを確立させようとしている。

というのも言語聴覚士の先生からの課題を受動的にこなすだけではダメだと思ったからである。

そもそも俺と似たような吃音の症状の人はいるかもしれないけど、俺と全く同じような吃音の人は日本全国探してもいないはず。

吃音の原因は同じかもしれないが、克服の仕方は千差万別な気がしている。

 

知識と感覚の融合こそが正解への近道

吃音に対する明確なエビデンスが確立されていないので、言語聴覚士の先生も自身の吃音の経験や感覚、話すことに関するあらゆる知識などから編み出した独自の克服方法を試されており、それを課題として実践している状態である。

言い方を変えれば甘い蜜だけ吸わしていただいている状態なので、そこから俺も今までの蓄積された吃音のノウハウや自分のフィーリングを生かして、もっと能動的に自分の吃音の型にバッチリ嵌まる喋り方を模索しなければならない。

吃音の数だけ答えがあるわけではないかもしれないけど、俺は自分に合った吃音の克服方法があるのではないかと思う。

先の見えない吃音という名の迷宮を今までに獲得した道具(知識)と手探り(感覚)で進んでいる感覚である。

吃音の功名を受けずにはいられない

そんなわけでまだまだ真っ暗闇ではあるが、昔よりは明らかに光が差し込んでいる。

まだまだ吃音を克服したと言い切ることできないが、自分の中では比べものにならないぐらい以前より吃音が改善している。

そして吃音のせいで無意識的に遮断していたお笑いにも可能性を感じれるようになってきた。

でももし仮に吃音を克服することができたとしても、芸人のスタートラインに立てすらないだろう。

下手すれば素人にも負けてしまうぐらいの喋りしかできない気がしている。

なので俺はお笑いの既存のルートではなく、全く新しいルートでお笑いをやるしかないと思っていてる。

それは怪我の功名ならぬ吃音の巧名を受けた別のルートである。

吃音の代償として得たもの

これは吃音がある人しか分からないかもしれないが、吃音者は自分の言いたい言葉が思うように喋れないときに必死で自分が言いたい言葉に似た意味の言葉を無意識に探してしまうので、言葉のボキャブラリーはかなり多い気がしている。

というのも吃音者は自分が言いやすい言葉に瞬時に変換してしまうので言葉の色んな言い回しを自然と思い浮かぶ。

そして吃音がある人は喋る前に脳のフル回転させて、数ある言葉の中から自分が喋る言葉を吟味するのが習慣になっているので、表現力は自ずと高くなるし、その場の雰囲気に合った言葉をチョイスするのも容易い。

思うように喋れないがゆえに頭の中は多種多様な言葉遣いで溢れ返っている。

上手く喋れないことで別の才能が鍛わった

流暢に喋れない弱点をカバーし続けた結果、丁度良い感じの身振り手振りや独特な言い回しなどのユーモラス表現力が鍛わった気がする。

今でも俺は流暢には喋れないので、なんとかしてあの手この手で伝えようと試行錯誤しているのだが、この経験がお笑いに通用するのではないかと思っている。

今まで言いたくても言えなかった言葉の数々や言えない言葉を避け続けたことで得られた喋り方を駆使して俺にしかできないお笑いを表現してみたい。

吃音ならではの発想や着眼点がきっとあるはず。

言葉がスムーズに出ないことで声のトーンとか表情などの非言語能力が群抜いていると信じたい。

吃音者にしかない特有のギフテッド

そんな持ち前の表現力と非言語能力を活かしたネタで勝負してみたいというのが俺の本心である。

そして30歳にして、このブログを立ち上げて文章を書くのが意外と得意なことが発覚したので、構成力で魅せるようなネタに吃音のテイストを織り交ぜてもいい。

俺を含め吃音に悩む人たちは喋るのに苦労している反面でなぜか書くのは全く苦ではない人が多い印象なので、思いを表現するのが得意である。

言いたくても言えなかった言葉が脳内に溜まっているのか、もしくは言葉にするまでに色んな思考が脳内を巡っているのかは定かではないが、文章力は吃音者特有のギフテッドなのかもしれない。

吃音に苦しめられたことを忘れるはずがない

ここまで吃音の恩恵みたいな感じで無理矢理、吃音であることをプラスに考えてみたが、俺は今日に至るまでに吃音で良かったなんて思ったことは一度もない。

まあ百歩譲って吃音の経験が自分の人生において何かしらのプラスになることができれば吃音で良かったなんて思えるかもしれないが、今までの吃音のマイナスを一気にひっくり返すぐらいのプラスの成功なんてそうそうないし、そもそも俺は吃音が嫌いである。

散々、苦しめられた吃音に助けられたとて、今までの恨みつらみは忘れるはずがない。

一生、固まることのないカサブタを抱えている状態であり、常に血が滴り落ちている。

純粋にもっと上手く喋りたいだけ

吃音の副産物的な表現力や文章力はバリバリ生かしたいが、基本的に吃音なんて邪魔な存在でしかない。

吃音を個性として受け入れていこうとするのもそれはそれで正解なのかもしれないが、俺は吃音という個性を認めたくないし、克服してなかったことにしたいというのが本音。

自分の短所を克服することに時間を掛けるなんて時間の無駄だし、短所は使い方次第では長所になり得るからかもしれないから短所なんて放ったらかしで良いという考え方もできるが、俺は吃音を克服して流暢に喋れるようになってみたい。

理学療法士の俺からすると上手く歩けない人が上手く歩けるようになりたいと思う患者さんと何ら変わらない。

つまりは日々、リハビリするのみ。

お笑いと吃音の歯車がガッチリと噛み合う

今のところ吃音を克服することが自我を保つことに繋がってるのでウィンウィンだし、むしろお笑いという高い目標が吃音を克服する原動力にもなると思っている。

極論、吃音を克服した自分を見てみたいという探究心的な面と、お笑いという最高に夢中になれるものが良い相乗効果を生むと信じている。

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