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【医療職の末路】
理学療法士としての限界を迎えたワケ。

俺は理学療法士として8年間(21から29歳まで)医療現場で働いていた過去がある。

歳月は人を変えるというのはこの事かと実感しているのだが、俺は8年という歳月を理学療法士に捧げたことは自分にとってかなり大きい。

【光陰矢の如し】
8年間、理学療法士として働いた感想。

俺は21から29歳までの8年間、理学療法士として働いていた。 理学療法士は巷ではリハビリの先生なんて言われていて、生意気にも医者と並んで「〇〇先生っ!」と呼ばれている一丁前な医療職である。 理学療法士 ...

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今思うとかなり現実的でつまらない人生だった。もっと夢を見てもいいし、もっと冒険してもいいと思う。

人生一度っきりなんだから生涯を理学療法士として捧げるなんて勿体無い。

気づけば30歳を目前にそんな思考になってしまっていた。

そして全く別業種の芸人の道を進むことを選んだ。というわけで今回は俺が理学療法士では満足できなくなった理由を綴りたい。

「ありがとうございます」の嵐の中心

理学療法士の仕事自体はやりがいを感じる場面に出会すことが多く、患者様との距離が物理的にも感情的にも近いという特性を持ち合わせている。

その近さは圧倒的であり医療職の中でもトップクラスだと個人的に思っている。

理学療法士はその圧倒的な距離の近さ故に他の医療職より患者さんから感謝される場面が多く、喜びをダイレクトに肌で感じる事が出来るので、常に自然と「ありがとうございます」の嵐の中心にいる医療職である。

つまり常日頃から喜びに晒されている理学療法士はやりがいしかない。

”ヨロコバレールハイ”という精神状態

独断と偏見だが大半の医療職は「人から感謝されたい」とか「人の役に立ちたい」など人に喜ばれる事をやりがいにしていると思っていて、もれなく俺もその内の一人である。

医療職の醍醐味と聞かれて患者さんの喜んでいる瞬間に立ち会えることと迷わず答えるぐらい、今でも俺は理学療法士という仕事が好きである。

だが今ではその好きが高じたのか、ある状態になってしまった。

それが”ヨロコバレールハイ”(自称)という精神状態である。

喜びという感情が身近にある弊害

これは端的に言うと一種の贅沢病で喜びという感情に自身の脳が麻痺している状態である。

普段から喜びに晒され続けてしまった結果、人から喜ばれても人を喜ばしても己の脳が満足しなくなってしまったと状態と勝手に考察している。

どういう機序でそうなってしまったかは定かではないが、おそらく日常茶飯事で患者さんから喜びという感情をぶつけられたせいではないかと思っている。

人から喜ばれる事に慣れてしまったのか飽きてしまったのかは定かではないが、自分自身の幸せを感じる基準が悪い意味で上がってしまったせいで人が喜ぶという事に対する感動が年々、薄くなってきているのは確かである。

タチの悪い贅沢病という結論に

普段から喜びというご馳走を食べているせいで完全にご馳走の味に慣れてしまって、ご馳走の有り難みを忘れてしまっている。

”ヨロコバレールハイ”という贅沢で厄介な状態になってしまった以上、喜びでは自分の脳が満足しない事が分かったので、もうお笑いをやるしかないんじゃない?(急展開)という結論になった。

質素(些細)な食事(感情)でも幸せ(美味しさ)を感じなければならないのに俺の脳は随分と舌が肥えてしまっていたようだ。

無理矢理耐えるとキャバクラに飽きてフィリピンパブにハマってしまうみたいな感じである(知らんけど)

感情の質を追い求める美学

”ヨロコバレールハイ”から脱するには?

ではこの”ヨロコバレールハイ”という状態から脱するためにはどうすればいいのか?

これには2つ方法があると思っている。

喜びよりも上位互換の感情に浸る。

1つ目は喜びを超越した感情(笑い)に触れるということである。

これは自分の脳が満足する感情を突き詰める方法である。

個人的に笑いという感情は喜びの上位互換の感情であり、喜びよりも圧倒的に洗練された感情であると思っている。

というのも笑いという感情は感情史上で最も誤魔化せない感情であり、笑いを我慢するのは出来そうで出来ないからである。

笑いは表情や仕草に出やすく、何より反応として分かりやすい。

人間は隠せない感情ほど興奮するものである(持論)

ちなみに俺は昔っから人を笑かすことには快感を覚えていたのだが、変に知恵をつけてしまったせいで理学療法士で胡座をかいていたようである(生意気)

理学療法士として喜びに浸るよりも、芸人として笑いに浸りたいほうが強くなったという経緯。

幸福度の基準を下げる経験

手軽に自分自身を追い込む。

2つ目は喜びでも満足できる精神(極限)状態になるということである。

これは自分が想像を絶するほどの大変な思いをしたり、厳しい環境に身を置いたりすることで自分の幸せを感じる基準値を下げるという方法である。

自分が幸せに感じる境界線が下がることで小さな幸せでも満足できるという仮説である。

要するに道端に咲いている花を見て感動して泣いてしまうぐらいの人生経験をするということである。

つまり幸せの基準を下がってしまうほどの負の経験すれば当初のように喜びで満足できるようになるかもしれないが、こればっかりは立ち直るのが厳しいぐらいの苦悩や絶望を味わないといけないし、率先して苦悩や絶望を味わいたい奴なんていない。

そう考えると俺は今までの人生で絶望や苦悩も経過してこなかったので、幸福度のボーダーラインが高く、小さな幸せを見つけるのが下手クソである。

結婚や出産によって小さい幸せを感じられる。

結婚したことない俺が言うのも説得力に欠けるが、家庭持ちの既婚者は結婚や出産などの大変でありながらも嬉しいライフイベントによって心が大きく揺さぶられることで、幸せの基準が下がり小さな幸せを見つけるのが上手になると思っている。愛する奥さんや尊い我が子がいることで充実しながらも大変な毎日を送っている。

でも大変だからこそ幸せの基準が下がることで自ずと小さな幸せでも満足できてしまうのではないかと考察している。

そんな俺は結婚もしたいとも思わないし、自分の子どもが欲しいとも思わないので、自らかが進んで絶望や苦悩を味わう必要があるが、それはなかなか難しい。

結果的に絶望や苦悩を味わうことになっても最初から率先して負の経験をしたいなんて思わないので、笑いという極上の感情に縋るしかないという結論に至った(消去法)

人を喜ばすより人を笑かすほうを選択

以上が俺の考えに考え抜いた理学療法士としての限界を迎えたワケである。

抽象的で独断と偏見染みた内容で申し訳ない。

まあ良くも悪くも理学療法士という経験を積んだことで、芸人という目指したい自分の人間像が浮き彫りになったということである。

ぬくぬくと理学療法士をやるのも良いが、それでは俺自身が満足できない。

極論、人を喜ばせることより人を笑かすことのほうが楽しい。

喜びの価値が相対的に上がる経験ではなく、喜びを超越した笑いに触れる体験をしてみたくなった次第である(承認欲求ダダ漏れで失敬)

 

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